Michael.J.J: 2008年10月アーカイブ
いや~これにはまいった。
アメリカの床屋は日本のような国家試験を受けて資格取得が必要ではない。
だれでも床屋になることができる。
私も髪が伸びて我慢できなくなって床屋に行ったが、日本では絶対虎刈りといわれることだろう。
とにかくへたくそだった。
上手な床屋にめぐり会いたければ、韓国人が経営している床屋が良い。
感覚的にも日本人と共通のものを持っている。彼らの仕事ぶりも丁寧だし、お客としての扱いもしっかりしている。
アメリカの大学図書館は実に規模が大きく、充実している。図書館を使用することは大学生活の中で最も重要なことの一つだろう。図書館の使用の仕方は、始めの段階でよ~く抑えておくべきだ。もちろん留学生向けのオリエンテーションもあるので、心配する必要はない。
まずELSなどの留学生向けの大学付属の語学研修機関に入れば、必ず図書館使用のガイダンスがあり、そこで図書館利用のIDを渡され、実際図書館の中へ入って図書館内のコンピューターの使用の仕方やその大学図書館で得られない情報は他の大学図書館から情報を得られるように、そのアクセスの仕方や情報入手の仕方まで、丁寧に説明してくれる。
また図書館のシステムや見つけたい情報へのアクセスの仕方、利用上の決まりごとなど実に懇切丁寧なガイダンスがまっているので、留学生は心配するに及ばない。しかしそこで分からないことは積極的に質問しておかないと、後々利用する上で不都合が生じるので、そのようなことのないようにしっかり使用の仕方に関する情報を抑えておくべきだ。
私は宿題のレポートや卒論、新聞の閲覧など、必要な情報はほとんど図書館で入手した。
日本の大学すべてを見たわけではないが、帰国して思ったことは、自分の大学の図書館がいかに内容、規模、システム面で規模が小さいかと言うことである。また学生の利用状況もアメリカのそれとは比べ物にならないことも知った。
とにかく図書館は大学の学業ではなくてはならない中枢機関だと思ってよい。
はじめの3ヶ月は大学の付属機関EPIというところで語学研修を受けながら
大学での単位のとり方、レポートのまとめ方、図書館の使い方、
論文の書き方などを学んだ。
中にはまったく英語が話せない外国人のためにTOEFL(留学時の語学力判定試験)
対策のコースもあった。
TOEFLはすでに日本で受験し、必要な点数を満たしていたので、
TOEFL対策のコースは取る必要がなかった。
ひたすら論文練習だった。
私のコースは教育実習もあったので、
語学もみっちり訓練された。
EPIでの生活は短かったが、内容の濃い3ヶ月だった。
日本の大学の英語科でもこれほど内容の濃い授業をしてくれればいいのにと思った。
大学での生活は実に楽しかったが、
宿題の多さには驚いた。
日本の大学生は、たしかに楽をしているな~と感じた。
毎日数冊の本を読まなければ講義についていくことはできない。
できなければ単位を落とすことになり、
とにかく必死で勉強をした。
勉強場所はいつも図書館だった。
図書館は本当に充実していた。
これがアメリカの大学の力だと思うほど書籍が充実していた。
日本の大学の図書館がちっぽけなものに思えた。
昼食はサンドウィッチが定番だったが、
学食に行くこともあった。
5ドル(およそ500円)出すと、食べ放題のビュッフェ形式の昼食が取れた。
大学キャンパス内の教会でも無料の昼食を提供していた。
パン、インスタントラーメン、ピラフといったメニューだが、
金のない学生にとってはオアシスだ。
たまに贅沢をするときはピッザハットに行き、
パーソナルパンピッザ(一人前の丸いピザ)を注文した。
とにかく食べ物は安かった。
お金がかかるのはなんといってもテキストだ。
テキストもまともに本屋で買ったら高いので、
私は古本屋でテキストをそろえた。
あとは図書館で必要な文献を借りてレポートをまとめた。
とにかく図書館を上手に使うことが、単位取得のカギだと思った。
教授陣は毎日充実した授業を提供してくれた。
授業の運営は教授の責任だが、
ただ、教師がしゃべって生徒が聞くといった授業はひとつもない。
とにかく、生徒は発表する。
発表できない生徒は宿題をおろそかにしてきているとみなされている。
そんな授業になれていない自分は、はじめは戸惑っていた。
はじめのころクラスの中であまり発表に積極的でなかった私に
教授(指導法の授業)は、名指しで質問し、
なんとか私にしゃべらせようとしているのが分かった。
クラスの他の生徒もあまり発表しない私をみて、
哀れみの表情を投げかけているように私には映った。
ある時レポートの提出があり、私も一生懸命でレポートに取り組んだ。
クラスでレポート発表の順番が回ってきた。
発表を終えると、先生が驚いていた。
「あなた結構やるじゃん」なんて言われてしまい、
ふだんどれほど馬鹿だと思われていたのか知る機会にもなった。
以後発表は積極的にするようになった。
教授はよく生徒を家に招待して食事会(パーティーともいう)を開いてくれた。
EPIで学んだ仲間ともいっしょになり、
ワイワイ、ガヤガヤ楽しい時間をすごした。
近所の公園へ遊びに行ったところ、2歳位の男の子と3歳位の男の子が遊んでいた。
我が家の長男もその中へ入り、仲良く滑り台で遊んでいると2歳位の男の子が転びそうになった。
するとそれを見ていた長男(拓也)が「Are you OK?」と聞いた。
するとそのこは「Yes」と答え、会話が成立!
やはり子供は自然に英語を覚えるのだと妻は感動した。
私たちは臆すことなく様々なことにチャレンジした。
まずは子供を保育所に入れた。
言葉の違いなんて気にしなかった。
始め長男は泣いていたが、そのうち慣れて、みんなと遊ぶようになった。
単に大学生だけをしていたら保育所の様子や近所づきあいなどはそれほどなかったと思う。
子供や妻と留学生活を送ることで普通の人が経験できないことをすることができた。
留学に家族は足手まといだなんて考えるのは大きな誤りだ。
家族は様々な経験の喜びを何倍にもしてくれる。
留学から帰ったら結婚しようと考えているのなら、
その考えを改めて、あなたのフィアンセも一緒に連れて行ったらいい。
二人にとってかけがえのない経験になるはずだから。
私が大学で勉強している間、
妻は二人の子供の世話をしていた。
だからといってずっと家にいたわけではない。
週に何度か近所のバプテスト教会が主催している英会話教室にも通った。託児所もあって、二人の子供をあずけて、勉強に集中することができた。
妻は帰国するころには日常会話にはついていけるぐらいに会話の力を伸ばすことができた。
あるとき車同士の接触事故を起こした。そのとき、警察が来て、妻からそして相手の運転手からも事情を聞いていたらしいが、なんだか相手のいいように話をもっていかれ、悔しがっていた。
やはりもっと英語力ものばさなきゃという気にさせた事件だった。
妻は買い物にも行くし、日本の主婦たちのように公園デビューもした。
近所の中国人の女性友だちとも仲良くなって、買い物にも出かけた。とにかく、普通に生活を楽しんでいた。
ある時期から長男を保育所に入れた。
長男にも自分の世界を広げてほしかったし、なにより、家族が社会生活を普通にすることで、アメリカ社会の様々な面を知るきっかけにもなった。
病院、保育所、英会話、教会など、人のいる場所にはどんどん飛び込んでいった。
妻はお気に入りの店を見つけるのが早く、車でドライブしては、ショッピング情報を入手していた。
限られた生活費で帰国まで頑張らなければならない。安いものをとことん探していた。
サウスキャロライナの物価は日本のほぼ4分の1だ。だから無理に安いものを探さなくても、十分暮らしてはいけたのだが、妻の家計管理のおかげで、アメリカ国内の旅行を何度も楽しむことができた。
アメリカの大学の多くがそうであるように、
私の通った大学でも、家族向けのアパートが用意されていた。
私たち家族はそのアパートでサウスキャロライナでの生活を送った。
3LDKの十分な広さのアパートで、隣、階下はすべてアジア系住民だった。
隣は中国人一家、階下は韓国人一家とイラン人一家、
下のイラン人の奥さんはよく次男建佑の面倒をみてくれた。
隣の中国人の奥さんは威勢がよく、英語は片言だったけど、
誰とでもよく話をしていた。
会話の語尾にはyou know?が耳障りなほどに
繰り返される。
みんな穏やかな気質の人たちばかりで、
夕方になると公園で夕涼みをしながらいろいろなことを話した。
食事を作って近所隣と分け合ったり、
いっしょにFarmer's Market に行ったり、
なにかと心の支えになっていた。
韓国人の旦那さん(キムさん)からは韓国語を教わった。
同じ学部で学ぶ仲だったので、共通の話題も多かった。
ある日、キムさんの奥さんがダウンタウンへ洗濯物をもって
クリーニング屋さんへ行くと、強盗に襲われ、
殴る蹴るの暴行を受け、右腕を負傷して帰ってきた。
恐ろしいニュースに騒然としたが、
その後、奥さんのケガも回復し、普通の生活を取り戻した。
とにかく、命があったことに安堵した。
また、ある時友人がダウンタウンで夜、酒を飲んで歩いていたら
ピストルを突きつけられ、20ドル奪われた。
それでも命があったことに安堵した。
アパート周辺はいたって平和なのに、
ダウンタウンは危険っていうイメージが付きまとった。
アパート周辺はきれいな家が立ち並び、
きれいに刈られた芝、大きな木々、素敵なガーデンエクステリアと
雑誌に掲載されそうな家ばかりで、家族で夕方散歩するのが楽しかった。
当時妻が記した家族新聞から
こちらに来てから夜中12時、3時、4時、5時と何度も起きて泣き出し、
朝まで眠れない建佑(ケンユウ:次男・生後3ヶ月)。
私たちは時差ぼけのせいだと思っていた。
しかし、1ヶ月以上も経っているのに治らない。
おまけに泣き出すと、おっぱいを口にしない限り、あやしても歌を歌っても寝ない。
ミルクはまったく受け付けない。
アメリカの友人に妻は相談した。
彼女はそれが時差ぼけや病気などではなく、精神的なものであるといった。
4,5ヶ月ともなるといろいろなことが分かり始めて、
お母さんの匂いやおっぱいを求めておきるのだという。
そして彼女は、次男を一人別の部屋で寝かせ、
ひとりで眠れるように訓練すべきだとアドバイスをくれた。
彼女の貸してくれた育児書には、
その訓練はコールドターキーと呼ぶと記されてあった。
その訓練、つまりコールだターキーとは放っておくこと、
泣いてもおっぱいもあげず、あやしにも行かない。
とにかく放っておくことが一番だと記してあった。
数日経つうちに泣く時間は少なくなり、朝6時にすっきり目覚めるようになった。
妻はその記録を書き留めた以下がそれである。
訓練1日目 夜中12:30~1:30 泣き通し、結局おっぱいをあげてしまう。
朝5:00 泣く
朝6:00 泣く
訓練2日目 ためしに 起きて泣き出す前におっぱいをあげてみた。(夜中1時、4時)
しかし、朝5時、5時半、6時と泣き出し、
おっぱいをあげても同じなので6時過ぎ
泣きやむまで泣かせた。結局30分泣いて、ウトウト眠る。
訓練3日目 おっぱいをあげずに泣かせておいた。
夜中3時 15分間泣き通したが、一人で寝ることができた。
4時半 5分間泣き通したが、一人で寝ることができた。
6時 2分間泣き通したが、一人で寝ることができた。
訓練4日目 夜中1時半 20分間泣き通したが、一人で寝ることができた。
4時 5分間泣き通したが、一人で寝ることができた。
5時 5分間泣き通したが、一人で寝ることができた。
訓練5日目 朝5時 5分間泣き通したが、一人で寝ることができた。
6時 2分間泣き通したが、一人で寝ることができた。
訓練6日目 朝5時 10分間泣き通したが、一人で寝ることができた。
7時半 笑顔で目覚めた。コロンビアに来て初めてだった。
その後、何度か夜中に泣くことはあったが、朝6時までぐっすり寝る日は増えてきた。
以後、彼は時間になるとひとりで部屋で眠り、朝、笑顔でおきるようになった。
二人の小さな子供を抱えた私たちに機内の乗務員達はとてもよくしてくれた。
赤ちゃんが寝られるようにスペースを作り、
粉ミルク一缶とオムツのサービスがあった。
およそ12時間の長旅、
海外旅行は二人とも初めてではなかったが、
アメリカは初めてだった。
どんなところに住むことになるんだろう。
サウスキャロライナってマイナーな州だけど、
「地球の歩き方」を見る限りでは、
南部独特の雰囲気をかもし出してる日本人の少ないところだ。
たまに日本食恋しくなるだろうな~
アフリカ系の人がかなり多いとは聞いてきた。
どんな素敵な友人が待っているのだろう?
様々なことを考えながらも、
子連れの1日に少々疲れも覚えていた。
飛行機はポートランドを経由してアトランタまで行き、
そこから乗り換える。
ちゃんといけるのだろうか。
ポートランドに着くと空は明るかった。
朝なのか夕方なのか頭の中は少々混乱気味だった。
私たちはコロンビア行きのゲートを探した。
長男も疲れてぐったり。
でも無理に歩いてもらった。
かわいそうに・・・なんて酷な旅だろうか。
やっとコロンビア行きの飛行機に乗って
また数時間の空のたびが続いた。
この辺からは完全に日本語が聞かれなくなった。
機内食もJALとは異なり、完全にアメリカの食事だった。
ついに目的地のコロンビアに到着した。
長時間座席に釘付けになっていたことと時差で私たちは疲れ果てていた。
空港に降りた私たちは、再三の警告に従って、イエローキャブ(タクシー)を探し、
予約していたホテルへと向かった。
少し腹が減っていたので、自販機でパンを買った。
砂糖で作ったパンかと思うほど甘かった。
パンを食べ、ぐっすりとねむった。
アメリカ第1日目の昼であった。
それは1993年7月だった。
たまたま受けた文部省交換留学生選抜試験に合格した。
当時私は大学3年生(31歳)、妻を持ち、二人目の男の子に恵まれたときだった。
次男はわずか3ヶ月、文部省から出る渡航費と学費は自分の分だけ・・・
しかし、家族をおいて旅立つことはサラサラ頭にはなかった。
もちろん、親なんて頼ろうとは思わなかった。
当時自分がバイトをしていた塾(弘前市城東書院)もやめなければならない。
塾長に留学生選抜試験に合格したことを告げ、塾をやめなければならないことを告げた。
普通であれば、そこで話は終わり、塾長は次の働き手を探すだろう。
しかし、塾長は喜んで、「あ~、行ってきたらいい。いい経験になる。家族の生活費も無利子で貸してあげるから。」
喜びと同時に、塾長の懐の広さに頭を上げられない思いだった。
こうして9月家族はアメリカへ旅立った。
孫を見れなくなる両親は寂しさと、海外での生活に心配を募らせていた。
行き先はアメリカ サウスキャロライナ州 コロンビア、
学ぶ大学はサウスキャロライナ州立大学 専攻はTESOL
(第二外国語として英語を教えるための指導法習得コース)
私たちは成田空港へ向かった。
私は荷物を持ち、
妻は次男を背中におぶり、2歳の長男の手を引いていた。